べっ甲の歴史

奈良時代から続くべっ甲の歴史。長い間、日本(特に長崎、東京を中心)の伝統工芸品として、また、特産品として全国に流通して参りました。

飛鳥・奈良時代から続く
べっ甲の歴史

日本におけるべっ甲の歴史はかなり古く、約1400年前の飛鳥・奈良時代にさかのぼります。

飛鳥・奈良時代(西暦600年~)

聖徳太子が小野妹子を隋に遣わしタイマイをもたらしました。

604年、東大寺正倉院の宝物庫にみられる「玳瑁杖(たいまいのつえ)」「玳瑁如意(たいまいにょい)」「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」等が中国からもたらされたとされます。

平安・鎌倉時代(西暦903年~)

903年、菅原道真を祭る道明寺天満宮に「玳瑁装牙櫛(たいまいそうげのくし)」が国宝として所蔵されています。

1192年、鎌倉八幡宮宝物殿に矢たて、その他にタイマイを使った製品が宝物として現存しています。

江戸時代

「木間商店」所有

印籠

中国で産み出された技法が16世紀にポルトガルに入り、ポルトガル人の来日により長崎に伝えられました。以降、長崎を中心にべっ甲細工の技術が発達していきました。

当時は、亀(玳瑁)は鶴とともに長寿のしるしとしてめでたい品とされ、かんざし、櫛、箸などが各地の大名に愛用されていましたが、高価なため元禄時代には「奢侈禁止令(江戸幕府が士農工商を問わずに発令した贅沢を禁じる法令及び命令)」により、庶民には手に入りにくい貴重なものでした。

しかし、ある藩主が婚礼に際し「是非ともタイマイ製品は必要である」とし、幕府に対して「玳瑁は唐より渡来した高価品であるが、わが日本内地の亀の甲で作る品は差し支えなきや」と苦肉の上申を行い、「鼈甲(すっぽんのこう)で作る品ならば一向に差し支えなし」と許可を得ました。以来玳瑁の名称は鼈甲(べっこう)と改称されたという説があります。

「鼈甲細工上総屋の店先」ライデン民俗博物館蔵(講談社発刊 シーボルト・コレクション浮世掲載)

徳川家康(1542-1616年)の遺品とされる「目器」(鼻眼鏡)が久能山東照宮に現存、所蔵されています。

1665年、出島オランダ商館長が徳川家にべっ甲を献上しました。
1701年、オランダよりべっ甲の輸入が始まり、長崎にべっ甲業を始める者が出ました。

明治・大正時代

安政6年(1859年)に各国との間に開港条約が締結されると、長崎の港には従来のようなオランダ船ばかりでなく、アメリカ、イギリス、ロシアなどの商船、軍艦が絶え間なく出入りし、街中にも多くの外国人が自由に散策するようになりました。各国の人たちは多くの土産物を買い込むようになり、べっ甲職人達も従来のような国内向けのデザインべっ甲細工ではなく、外国人が好むべっ甲細工を制作することが必要となってきました。

昭和・平成時代

べっ甲製品は、長い間日本(特に長崎、東京を中心)の伝統工芸品として、また、特産品として全国に流通して参りました。現在はべっ甲のメガネ、かんざし類の和装品、ネックレスやペンダントなどのアクセサリー、置物などが中心的な製品になっています。

令和になると、べっ甲製品の原材料は天然から養殖へと切り替わり、天然資源と長大な歴史の双方を活かすサスティナブルな伝統工芸品として新たな一歩を進んでおります。